昭和46年09月13日 朝の御理解



 御理解   第65節
 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない。ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、吉い日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」

 自分に都合の良い日が吉い日柄じゃ、金光さまの御信心をさせて頂けば、ここのところは、繰り返し頂いてもおりますし、又日常生活の上にもそれが頂かれ、表されておることと思います。所がお話を頂いて信心をしておりましても、やはりあの日柄をいうたり方角をいうたりする信者も沢山あるのです、それはね信心が分らないといえばそれまでですけどそういう考え方は天地に対する御無礼になるのです。
 ただ昔からいうてあることだからそれは守らなければと、それはそうですねというだけですみそうですけれども、それを知って、例えば天地の中に、天地の親神さまのお恵みのこもらないところは一角だってありません、ひとかけらだってありません、天地の隅々まで天地の親神さまのお恵みというものはいちように遍満しておるのだ。その中にこれは良いの悪いのと言うのはいけません。
 但しね、私このごろ、梅里先生のお話しを頂いておりましたら、やはり庭を当たられますから、私は、梅里先生の考え方の信心はあんなさらんけれども、まあ常識として私は素晴らしいと、私は常識をそなえておられる人だと思いました。というのは大体この家なら、この家で言うと、家の中心に磁石を置いてはからなければ正確なことは分からないと、まあここでいうならば。
 東北かね東北が鬼門になると、そこには吉いとか凶いとかじゃなくて、そこは非常に非衛生的になるところだと言われておるですね、そこに便所なんか持ってきますと、例えば日が当たらなかったりね、じめじめする角になる相です、だから科学的にいうてもね、そういうところは、吉い凶いじゃないけれども、やはり非衛生的になるからだと、だからそこのところを考慮して使えばよい、という意味のことをいって居られます。
 特にあの庭には苔を植えたり苔がつくことを喜びます、いろんな苔が青々とつくために小便を薄めて庭に撒くんだそうですね、そうするとそこに青い苔が生える、まあそれよりもまだ不浄のものをかけたりする場合もある。そうすると青い苔ができるけど、私はそれを尋ねる人がありますけどもお土地を汚すことはいけないと思うて自然に生えるのが一番よいですよと、いうですけど、どうでも生やさにゃいかんというならば尿素か何かああいう肥料、科学肥料をね水に混ぜて撒きなさいと教えると言われる。
 これは今日の御理解に一寸つながらないかも知れませんけれども、客殿の前の広い庭、手前の所に「みやまつつじ」がずうっと植えてあります、それが殆ど枯れてしまいました。石の横にすえてある。先生矢張り植え直さないかんでしょうねと私は申しましたたらね、もう言われる事が素晴らしいじゃありませんか、先生もう縁無き衆生は度しがたしでしょううがといわっしゃる、だからそこに植えました、そして縁なく枯れていくものは、もうそこには植えん方がよいですよと言われたこっちが御理解頂いとるごたる。
 そして自然にそこに生まれるもの。あの泉水の向こうに桔梗がとってもとっても一本生えるんですよね、あれなんかはなかなか風情があって良いものですよと、大体朝鮮芝なんか生える、だからというて雑草もとらんという意味ぢゃないですよね、そこんにきは間違えてはならんところですね、それなら雑草でも何でも自然に生え、しこって行ったがよかろうと、言う事じゃないです。チリがあればチリをとり雑草が生えれば見苦しいものがあればそれを取り除くというのが自然なんです。
 だから私はこの歯が欠げておるけれども歯をいれませんと、本当に自然主義者ですよね、やはりだからやわいものを頂くと、こういうとられます本当になかなか何でも日本一といわれることになりますと、徹底した考え方があると言う事ですね。これもまた外のなんですけど、久留米の初代のあの前の三橋先生ですたいね私が成り行きを大事にするということをね、自然と対決すると言う事を成り行き主義者、いうなら自然主義者というわけです。私が丁度爪をつみょる時にやって来ましてね。
 冗談ですけども、親先生あなたは自然主義、自然主義といいよんなさるけれど、爪でんなんでん生やし放題に伸び放題にしなすった方が、自然主義に近い方じゃないですかというけん、うんそれもそうたい、でもね爪が伸びたらきるのが自然よと、自然主義というのは、てんで山男のごとこうならにゃならん、ちゅことじゃないちゆうて話したことですけどね、こういうのは屁理屈という、例えば今日私が言おうとする、日柄方位も屁理屈をいう人があります。
 どうのこうのと、けれどもその今の鬼門隅と言う様な事も梅里先生の場合はちゃんと理があるでしょうが、例えば御地内を大切なものとして、頂いて行かれる、だから自分は庭を作る時に必ずその前に地祓いをすると言われるというのは土の神様に御詫びしてからしか鍬は入れないと、こういう意味なんです、まそこんところに先生の庭造りの信念というものが有るんだと思いますね。
 ですから私どもがこういうことにこだわってはなりません、例えて言えば結婚式をするのにこちらは信心がある向こうは信心がないそういう時にはもう向こうさま任せにしなさいと日柄が良いの悪いのじゃないです向こうがなん日が良いですかと言われればああそうですかと言うたらよい、いいえ私どもは金光様信心しよるけ、そげなことは問題にせんけ、しやっちこうするということはいらないといいます。
 そう言う事は一つも、自分の意志じやないから御無礼になる事はないでしようが、けど信心しよつて、自分のそう言う事だと知っておつて、分かっておってそれをする事は、天地に対する大変な御無礼です。そう言う事が前々のめぐりで難を受けおると言う事になってくる、いわゆる私共、難儀の元というのは、私共の考え違い、思い違いその思い違いをすると言う事なんです、それが天地に対する御無礼になって、それが前々のめぐり、それが重なり重なって難儀の元になると言われるのですから大変な事です。
 天地に対するところの御無礼ですから、たったその位な事ですけれども、それが難儀の元になると仰せられるのですから、例えばねまあ極端なことをいうとですよ、人のものをとったとか盗んだとか、人道上許されません、けれども神様から御覧になるとですね、それは天地に対する御無礼というほどしのものはないと私は思うです。その位の事は大して、めぐりの元とか難儀の元とかにならない位だと私は思います。まあ極端な言い方しておる訳ですよ、けれども人間には人間の道があるから。
 勿論いけませんけれど天地の親神さまから御覧になるとです。何故かというと天地の親神様の物ですから一切が、だからデパートに行ってからがばっと、いろいろなものを持ってきたり、それはデパートとのものと思えば、それは泥棒ですけど、神様の御物といえばそうではない話です、けどまあ人間の世界はそう言う事をすれば人間の世界は法則というものがありますから警察法というのがありますから、警察法に照らされますとやはり監獄にいかねばならない、又は罰金を納めなければならないと言う訳です。
 けれども神様の世界からいうたらたいしたことはない、けれども私は今日ここんところを強調するために、それをいっているのです。天地の親神様の法則を無視したり、それにけちつけたりすることは御無礼になるのです。天地の親神さまのお恵みの遍満しておる、日々の中にあの日がよいのこの日が悪いのと言う事は御無礼です、此処の土地は此処がいかんがと申します鬼門とか日柄方位とかいわゆる方位なんです。と言う事は、今日はあっちの方え金神さまがござるけ、金神さまむこうちゃいけない。
 金神よけして行かねばならんとか、こっちの方は金神さんが留守じゃから、こっちの方はいくらいったっちや、よかとか、そういう考え方をお道の信心をさせて貰う者は、まず一掃しなければ、何にも障りの無い思い方、考え方しないとね、それがめぐりの元になる難儀のもとになる。信心しておってわかっておつて、今日は日が悪かけん今日やめようといったようなことは、これは天地に対する御無礼です。
 だから徹底して金光さまの信心を頂くなら、こう言う所が、すっきりしませんといけませんけれども、何十年信心しょつても、ここはやはり昔から言うておる事はせねばというて実行しとる人があります。だから本当のおかげにならんのです、けども今日私はね、よい日悪い日はないというけれども、私どもはその良い日を作ると言う事は有り難いですね、特別のよい日をつくると言う事は、例えば子供が生まれますね、もうおかげを頂いて家はもう必ず合楽の何日の日に生まれる合楽のお日柄の日に生まれる。
 十八日とか二十三日とかもうこれはお日柄という日を有り難く頂いておるわけです、善導寺の久保山の孫達は皆、お日柄に生まれるのですよ、ここで御信心を頂いてる人達は大体そげんです、何か御神縁のある日ましてや十三日に生まれるなんていったら、神様の願いが成就する日に生まれたといって喜びます。これは悪い日、吉い日、特別によい日を作る訳なんです信念する訳なんですその信念するのがおかげを頂くもとになるのです。又神様のお働きの中にも、それがあるのじゃなかろうかと思います。
 幸せにしてやりたいばっかりの神様の願いです、ああ有り難い日に生まれたというその心がおかげになるのです、だから私はそこんところを今日は反対にね吉い日を作るということなんです。ほう十日それは合楽の月例祭の日じゃないか、もうその日がよかばいというそれは、私はよいと思うですね、だからそのあとの日が悪い日というのじゃないですよ、今日は十三日神様の願いが成就日として合楽の人はこよなく大事に致します。朝から皆あっまって御用奉仕を一生懸命します。
 午後からは、合楽の一番の共励日として、皆さんが一生懸命、信心の共励をなさいます、ところがどうです、これがアメリカあたりでというと、この十三日というのは大変な悪い日なんです。然も金曜日の十三日等というたら、もう飛行機の墜落する日のごという、ところがそれがやはりあるようですね、本当にそういう事故の多い日だそうです、だからこれは神様がですね、天地の親神様がわかりやすくいえば、天地の神様が罰かぶらせよんなさるとです。
 悪い日でもないものを、金曜日が悪い日でもないものを十三日が悪い日でもないものを悪い日と迷信するところに、そのおきずけを下さりよると、私は思うんですよ。このごろ何か十三日に事故が多いですからね、丁度十三日の金曜日に当たった日がありました、その日だれだったですか 丁度東京へいきよんなさる人がありましてね、飛行機で行かれるんですよで、その日にお届けに見えましたですから吉い悪い日はないけれど、心にひっかかるならお取次ぎを頂いて有り難い日としていく事は有難い。
 有り難いことしか生まれません。心にひっかかるなら、私共は長年のしきたりとか、そんなことを言ってきて、やはり日柄方位というようなものがですいわゆる心に引っ掛かるから、こうしてこうして御普請をさせて頂きますから、どこにお粗末御無礼があってもなりません、お便所ここに立てます、井戸はここに掘らせて頂きますから、どうぞよろしくお願いします。
 というてお願いしていけば、心にもひっかからないし有難く所謂使い勝手の良いのが良い家相ぢゃということになる、なら合楽のものはどういうことになるかというと、金曜日といえば金に縁のある有り難い日としたら、どうでしょうかね皆さん今日は、本当に金が儲かるぞとおもうたら、本当におかげになる、これは有り難いことになるのです。然も十三日の金曜日なんてもう素晴らしいこと。
 天地の親神様の願いが成就する日、然も金に縁のある日ぞと言う事になつたら大繁盛です商売が、それが思い込みで有り難く頂けたら、これは迷信ではありません。信ずるということです、だから御無礼になることを信ずることはやはり御無礼なことになってまいります。あー今日は何の日ぢゃけん悪かろうと、丁度今日は友引になるけんで。例えば葬式等は送られない、というて夏の暑い時でんなんでん一日余計に遺体を置いて、家の中はプンプンするごとあることを平気で。
 それをほんなごとのごというてそれをする人がありますよね。高芝さんのおばあちゃんが亡くなられたのは丁度、お葬式が友引の日に当たっとりました。それから、お尋ねに参りましたから、そげなことは考えることはいらんから友引の日に私が教徒ですから、私がお葬式に参りました。そう言う事にしとりました、ところがまたやってまいりましてね親戚から友引じゃから一日延ばせといよりますがどうしましょうかと。
もう電報は親戚の者に打って通知しておりますけんもう一ぺん電報打ってから日を変えますからというてお願いになったから私がやかましく言いました。金光様の信心しよってから何てゆう事を言うのちゅうてからもう電報まで打っとるとぢゃからもう絶対それこそ神乍らの日として明日葬式を行いなさいと、まあ、そこんにきは本人自身がわかっとるとですからね。
 私も実はそう思いますけどと言うて、もう新戚から言われますけど、そういう事にいたしました。おかげで本当にお天気の日に小さいお家でしたからもう、外にまで参列される方達が多うございましたが、おかげで明くる日はもうどしゃ降りでした。一日延ばしましたらどういう事になったでしょうかね。外から会葬される方は濡れんならん結果になります。そして後になりゃ友引きする様な事は何にもなかったでしょう。
 友引きというのは、次に次に死ぬるとこういうのですよ。だからこう言う事でもですね、なら信じたらそうゆ事になるかも知れません。だから今日は私はそれとは反対の意味に於いてのおかげ日というた様なもので私どもが作るというか頂くことは有難い。家の子供は合楽のお日柄の日に生まれておるからおかげを頂くに違いないと思う。そう思い込まして頂くことが有難いぢゃないですか。だからおかげ頂くです。
 十三日しかも金曜日、今日は金光様の金の字につながる日、金に縁のある日、今日は十三日という神様の願いの成就する日に事を起こすとか、事があるというのは、これは有難いぞと思える事は絶対有難い事になるのです。今日はそういう意味でこの六十五節を頂きました。どうぞゆめ皆さん信心のない人達が言う様な、日柄方位とか日の吉いとか凶いとか又はその方位等をいうていことはです。
 いけないと言う訳ではありません。それは天地に対するご無礼になるのです。それが難儀のもとになるのです。それは泥棒する事よりももっと本当いうたら悪い事なんです。泥棒せろという意味じゃないですが、そこは間違えない様にどうぞ。本当のことが分かってです、神様の御物であると言う事が分って向かうのとからこっちさえ持ってくるというのなら、神様の御物ですからそれは別にとがめられる事はありません。
 けどそれは人間の世界はとがめられます。だからそれは罰金を納めたりまたは懲役に行ったりせなければなりません。だからそこんとかろは間違えないようにしてゆかねばなりません。同時に私どもがです、梅里先生の例をとりましたが、自然、成り行きを本当にだいじにしてゆかねばなりません。もう縁なき衆生は度し難いその後のものを大切にしていかねばなりませんですね。
   どうぞ。